誰からも知られていなかった「学校と学校外をつなぐコーディネーター」

きてきて先生プロジェクトとは一芸に秀でた社会人講師が学校で授業をする活動。
2000年にNPOとして有志が集まり、2015年に一般社団法人化しました。
今までに、小中高大1000組の出会いを作りました。
今でこそたくさんの教育支援プロジェクトがありますが、2000年にはそんな団体はほぼゼロ。
自分自身が何者かもわからない状態でした。
その草創期からをつづります。
前回の投稿はこちら
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前述のとおり、平成15年より、東京都杉並区の委託を受けて、「学校教育コーディネーター」に任命されました。
杉並区では3期目のコーディネーターです。
杉並区の委託の仕方は、個人に対してで、1人のコーディネーターが「拠点校」と「推進校」という担当校を持ちます。
拠点校は、文字通り基本となる担当校。簡単に言うと一番力を入れる学校で、推進校は、今後拠点校となり得るよう少しずつ
コーディネーターの存在を知っていただくための活動などを行う学校でした。
もちろん、コーディネーターの希望や力量により、推進校の数は変わります。
初年度は、拠点校1校のみで活動しました。
(基本的に、拠点校のコーディネーターはその地域の方がなることが多かったのですが、私の場合は、いわゆる落下傘的な
コーディネーターでした。)
伊東市の活動で自信を持っていたので、杉並区にも伊東市の成功を!!と思って入ったのですが、
実際はかなり違いました。
伊東市の活動は、首長部局が主担当、教育活動は学校教育課、指導室が担当していたので、説明会は市役所会議室で管理職と担当の教員を集めて行われていました。
当然、担当の教員はベテラン、かつ熱心。エース的な教員に限られていました。つまり私たちは、そういう先生しか見ていなかったのです。
でも、杉並区のコーディネーターの所管は教育委員会といっても指導室ではありません。おまけに「コーディネーターを配置します」といっても、
そもそも、コーディネーターになりたい!という人がコーディネーターのことをわかっていないぐらいの現状。
最初に担当した中学校は、校長のやる気があっても教員にとってみると、学校教育コーディネーターとはいったいなんのための役割なのかどのように活用すればいいかわからず、
就任しても「仕事」自体はほとんどありませんでした。
同じころにはじまった「中学生の5日間の職場体験学習」の体験先を探して欲しいという依頼や、
福祉施設の体験に行く事前授業として福祉の現場の話を聞く授業などを行うのがせいぜいで、特に授業をコーディネートするといったような活動はありませんでした。
私自身、「私はコーディネーターというものなのだ」と知ったのは、杉並区に声をかけられてから。
誰にも知られていない存在だったのです。